チェルフィッチュ「三月の5日間」 Cheaulait (クマに鈴)の感想

チェルフィッチュ「三月の5日間」 Cheaulait (クマに鈴)の感想

 

チェルフィッチュ

三月の五日間

イラク戦争と時を同じくして渋谷、六本木で交錯してるのかしてないのだかわからないが、若者がいる、三月の五日間のお話。

色んな角度からツッコミどころ満載なんだけど、思い出しながら書いてみよう。

|||キャラ|||
日常の中で手癖になった言葉。口癖っていうのか、しゃべり方のくせ、しゃべってるなかで必死にコミュニケーションを試みた結果盲目で突っ走っちゃう感じ、結果ジェスチャーというかよくわからん失笑を買う身体の動きがついて回る・・。
そう、まず第一に<余計>なものが多い。これは作品を作る人間として一番感銘を受けたことなんだけど、余計なものがちゃんと適切なタイミング で、洗練されてない<余計>なもののまま作品の要素になっていて、それでいて脚本としての作家性というのか、ギラギラした「僕やってまっ せ〜、作り込んでまっせ〜」っていうのが微塵も感じないんだ。そういうのは押し付けがましいし見ていて煩わしい。でも彼らの作品では<余計> がある。
ノイズとして処理されてしまいがちなその場独特の間を生み出す因子が生きている。というかほぼ全部それなんじゃないかと。書くにあたって思い出して思う。
そういった余計なものが堆積してキャラクターを形作るんだけども、三月の五日間はそれだけじゃ終わらなくて、演者がキャラクターを地でもちながら役柄を演じるのではなく、役柄は不安定に演者を移ろいゆく。
出処のわからなくなった噂話のように誰かの誰かについての話が名称を用いて演じられる。雑な落語のような、ファミレスで隣から聞こえてくるプライベートを 赤裸々に話す会話。でもそれが誰のものなのかわからないから、話そのものの生々しさは薄らいでむしろ語り部の仕草、喋りグセ、その人自身の生々しさの方に 注目してしまう。そこで三月の五日間のおけるシチュエーションや場面設定、時代性がどーでもよくなってきて、程よく繰り返されるファミレスのたるんだ会話 のような役柄のリレーを妙に生々しく見てしまうのだ。彼らの舞台の世界で起きていることが現実の起きたことだとしてもそうでなくても、そんな薄っぺらいこ とはどうでも良くて、確信なのは余計なもので埋め尽くされたどーでもいい生々しい部分が全然どーでもよくなくてすごく心をくすぐるんだよ。それは彼らの舞 台の外でも同じだとおれは思うんだ。

おわり

文責 Cheaulait (クマに鈴)

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