マームとジプシー「塩ふる世界。」
マームとジプシーは芸劇eyesで短編を見たことがあるだけで、長編は初めてだった。
主宰の藤田さんってどういう人だろうと思っていたが、制作の人々とともに受付のところでお客さんを迎えていた姿を見て、わたしは何かを悟った。
一回目のリフレインのあとからもう、頭蓋骨が割れてしまうかと思った。
夏はポップだし、海辺の町はベタッとしてしょっぱいし、ここから引っ越ししなきゃならないし、何より人が死んじゃったし、その理由がわからないし。
っていうような設定、ここまで衝撃を受けるなんてことがあるのか。
その場にいた人々のそれぞれのひっかかり。
記憶がどうしてもそこに戻ってしまうような出来事。
思い出すことをくり返すうちに、自分のなかでちょっとずつ改ざんされていく記憶の中の何か。その過程の複雑さといったら。
自分ですらそうなのだから、 他人が他人のことを理解することは難しい。
ある意味では何も共有することができないと思う。
特に感情、「痛み」はそうだと。痛がる人に対峙したとき自分は痛かった記憶を無理矢理引っ張りだして、曖昧な顔で「痛そう」と言って同調するだけだ。
うんざりなんだけど、なぜかやっぱり「痛そうだね」と言ってしまう。
それ、理解の有無を越えてただ単に、目の前にいるあなたが好きってことなんだとわたしは思う。
そして結局「好き」でくくるのは、わたしのよい&よくない癖である。とりあえず、そこで思考がストップするので…。
…で、そういうことや「そもそも自分と他人の線引きってなんだろうなあ」とかどこかで思いながらも、わたしは塩ふる世界。のウミネコが鳴く海辺の町に入り込み、何がなんだかわからないくらい泣いていた。いろいろ面倒くさくなって、結局その答えはでなかった…。
終わってから「すごくよかったね!」と一緒に行ったユッキーのほうをふりむいたら、
彼女は「そうだね」と言いつつちょっと難しい顔をしていた。
後日書いてもらった感想を見て、その訳がちょっと分かった気がした。
わたしたちは同じバンドのメンバーなんだけど、
バ ンドの練習では、いつもわたしや他のメンバーのギャアギャアいう叫びにならない叫びに耳を傾けて、自分とわたしたちに嘘がないように自分の感じたことを一 生懸命言葉や音楽にしようとしてくれるユッキー。この芝居を一緒に観に行けてすごくラッキーだった。この作品と彼女について、さらに考えることができた。 (INGEL)